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「楽に生きたい」という願望は、果たして吉と出るか凶と出るか

FIRE
「楽に生きたい」
「目の前の苦労を取り除きたい」

そんな方向けの記事です。

 

SNSを見ていると、「楽に生きたい」と考えている方が年々増えているように観察されます。

物質的に恵まれた現代では、無理して豊かさを追い求めるよりも、ストレスの少ない生き方の方が幸せになれそうですし、実際に、工夫次第で苦労せず生きることは(おそらく)可能です。

私自身も「できれば楽に生きたい」と考えている側なので、そのような考えに共感を覚えます。

 

一方で、「楽に生きたい」という考えを「人生の軸」に据えることには抵抗感があります。

何故なら、人生を振り返った時に思い返すのは「楽に生きられたか」ではなく、「自由に、思い通りに生きられたかどうか」だと私は考えているからです。

楽に生きられたからといって、思い通りの人生(幸せな人生)になるとは限りません。

 

「苦労や我慢があってこそ人生は豊かになる」のような価値観は持ち合わせておりませんが、それでも、思い通りの人生にするためにはある程度の苦労や我慢は避けて通れない、と考えています。

 

そこで本記事では

「楽に生きたい」

という考えについて、敢えて否定的な視点で考えてみたいと思います。

 

「楽に生きる」とは一点に「集中」した選択

「楽に生きる」とは、どのような生き方、生活を指しているのか。

SNSを見ている限り、以下のような生活を目指している方が多いようです。

 

  1. ストレスの多い仕事はやらない
  2. 時間的に余裕のある生活
  3. 生活コストはできる限り下げる

 

これは「やりたくないことをやるくらいだったら、無駄を減らそう」といった合理的な考えに基づいており、そのような考えができるのは、現状をよく把握できている証しだと思われます。

 

一方、「無駄を減らそう」といった合理的な考えは、程度を間違えると、「楽」ではあっても、幸せな状態からは離れていってしまうとも思います。

 

無駄な仕事、無駄な時間、無駄な出費、無駄な人間関係、、、、

「楽に生きること」を優先していった先には果たして何が残るのか。

何かが残れば良いのですが、行き過ぎた合理化は、人生の愉しみをも削りかねません。

 

全てを削っていった先に残ったものが「本当に必要なモノ」だという考えもありますが、これはこれで危ういと感じます。

合理化をする過程で何かを削れば削るほど、自分の好きなもの(苦手じゃないもの)を決めつけることに繋がり、見える範囲が徐々に狭くなります。

これは、あちらこちらに意識が向いていたのを一点に「集中」していくようなもので、良くも悪くも集中投資的な行為なのです。

「楽に生きたい」という願望は人生のリスクを下げているようで、見方によってはハイリスクと考えることもできます。

 

仮に、合理化の末想定していたのとは違った未来が訪れたとき、その環境に適応するか軌道修正を簡単に行えるのであれば、さほど問題ではありません。

しかし、適応力がある人はそもそも「楽に生きたい」なんて考えない、と想像します。

現在の環境に長らく適応できていないから、その環境から逃れたいと願い、「楽に生きたい」と考えているのではないでしょうか。

 

合理化して一点に集中した選択は「自分にはこの生き方しかない」といった結果に繋がります。

生き方が一点に集中すると、失敗したときに逃げ場がなくなるのです。

 

計算の上では「我慢」が有効なこともある

「楽に生きる」とは真逆なニュアンスを感じる言葉に、「我慢」があります。

「我慢」という言葉には「苦しい」「辛い」「強いられている」といったイメージがあるため、若い世代には特に抵抗感があるかもしれません。

しかし、私自身は「我慢」という言葉にさほど悪いイメージはありません。

 

「やりたいこと」や「なりたいもの」のイメージが明確にある場合、その難易度が高ければ高いほど、目標に近づく過程は楽なことばかりではないはずです。

時には苦痛を伴うのが普通だと思われますが、それ自体が悪いとは感じません。

 

受験や就活で例えてみると、わかりやすいかと思います。

これらは一般的な感覚で言えば苦痛を伴う行為ですが、苦痛なだけなら誰もやらないはずです。

「我慢」の末に自分の目的が達成された未来を夢見るから、「我慢」できるわけです。

同調圧力による「我慢」であれば苦痛しかありませんが、未来を見据えた「計算」の上での「我慢」であれば、人生においてプラスになり得ます。

 

このような「我慢」は人間にのみできる行為です。

犬のような一部の動物では我慢を覚えさせることが可能ですが、それでも、ほんの一時的な我慢しかできません。

人間が自分を律することできるのは、自分がより有利な状態になれるような未来を「計算」できるからなのです。

 

楽に生きることに注力しすぎると、人生においてプラスになり得る「我慢」も排除することに繋がり、長期目線で見ればかえって自分を追い込む結果になりかねない、と私は考えています。

 

「生きるのが楽」=「幸せ」とは限らない

私は「幸せ」=「思い通りで自由に生きている状態」だと考えています。

「まずやりたいことがあって、それが叶えられている状態。もしくは、そのような状態に向かっている途中に幸せを感じる。」といった価値観です。

 

私の価値観が正しいとは思いませんし、そもそも価値観に正しいなんてありません。

そのため、「自分はとにかく楽に生きたいんだ」といった価値観自体を否定しません。

 

それでも、「生きるのが楽」=「幸せ」とはならない、と私自身は思います。

この二つは別の要素であって、一緒くたにして考えてしまうと、どこかで違和感を覚えるかもしれません。

 

両方を求めるのであれば、それぞれ別の角度から攻める必要があるのではないでしょうか。

 

まとめ

  1. 「楽に生きたい」=見方によってはハイリスク
  2. 「楽さ」を求めすぎると自分を追い込む結果に?
  3. 「楽さ」と「幸せ」はベクトルが違う

 

冒頭でも述べたように、私も「できれば楽に生きたい」と考えている人間なので、苦労が好きなわけでも、進んで我慢したいわけでもありません。

しかし、幸せな人生を考えたとき、「楽さ」を追い求めるよりも、戦略的に「我慢」した方が有利に働く場面も多々あると感じています。

 

「人生の最適化はほどほどに」が良い塩梅だと思うのですが、いかがでしょう?

 

以上、終わりです。

 

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コメント

  1. deds より:

    ほんとうは世のため人のためを志したが挫折してそういう方向に行くのがいいんだろうなあ
    でも、楽な道を知らずに自殺までしてしまうので問題というのはある。
    めざさないにしろ逃げ道としての認識は必要な気はする。

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